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2013/10/07

ラスト・シーンの解釈

ブルーレイに買い替えたヒッチコックの『めまい』を再見した。綺麗な映像で観られるようになって幸せ。田舎の電器店のレンタル・ビデオ(VHS)で借り直して観た頃を思えば飛躍的です。

あらためて観直したところ、圧倒的な映像美もさることながら、物語のなんとも異様な展開がたまらない。緩やかに息詰まる感覚をもって、男女の真理を解く手掛かりが残されているような気がしてならない。

ラストの鐘楼シーンは、前半と違って夕刻を過ぎた時間帯、華麗な色彩構成で撮影された本編の中で、クライマックスにふさわしくないほどの暗黒に閉ざされた重苦しい映像だ。このシーン、男女が揉み合いながらズルズルと階段を上るさまが、『女殺油地獄』のラスト・シーンと重なるのだが。

さて、このラスト・シーンの鐘楼に登り詰めたスコティとジュディ。二人の愛の行方を固唾を飲んで見守っていると、突如階下からもうひとりが姿を現わします。

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その姿に怯えて、ジュディは鐘楼から足を踏み外して落下してしまいます。何という幕切れでしょう。

このシーンについて私は、ジュディがマデリンの亡霊に怯えて後ずさりした、と解釈してきました。
本編中、スコティを自殺の目撃者に仕立ててしまった事に対するジュディの良心の呵責は描かれていても、本来犯罪に加担したマデリン殺しに対するジュディの心理は、エンディングまで一切描かれていません。
そうした逆算の観点から、再び犯罪現場に舞い戻るのを極度に嫌ったジュディのトラウマを裏付ける解釈だと思っています。

ところがネット普及によって、あらためて他人様のレビューを参考までに拝見すると、
「シスター・テレサに怯えて後ずさりした」という解釈の件を見かけました。

マデリンが幼少期に恐れていたというシスター・テレサの存在。しかし、それは作り話、あるいはジュディの演技によって再現されたエピソードに過ぎません。
マデリンのフェイクから逃れたジュディが、今更、この件で怯えるのはナンセンスに思えます。

しかし、ラスト・シーンは真の姿が暴かれてしまった自分を、尚もスコティが「マデリン 愛してた」と呼ぶ姿に、ジュディは今一度応えようと、究極の選択肢を迫られていたと考えられます。つまり、
マデリンを取るかジュディを取るか?
そこでジュディは、最後の最後にマデリンが憑依することを望んだ。その結果、彼女はシスター・テレサの出現によって与えられる罰(その罰は自ら犯した罪と深層心理で繋がる)に怯えた…という解釈はなるほど成り立ちますね。

このシスター・テレサ論の解釈側からみれば、現れた人物が他ならぬ修道女の姿だったから、という点が何よりの根拠だと思うが、映像では微妙なシルエットの出立ちで、極限まで追いつめられたジュディが、それを修道女と認めるまでに、犯罪現場での第三者の影にまず混乱をきたした可能性があります。

いずれも「ジュディは何に怯えたのか?」という、ごく素直な問いが鍵になるかと思います。マデリンの幼少期に対して、ジュディについては、カンザス時代、継父との関係が良くなかった事くらいしか明かされません。

ラスト・シーンでのジュディはスコティに問い詰められ、さんばら髪になって、身ぐるみ剥がされたような女の惨めさを感じます。フェイクとしてしか生きられない姿を、これ以上誰にも見咎められたくない女の心情も、最後の悲鳴に込められていたのではないでしょうか。

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